2018世界一周の旅 その39「民泊に泊まる苦労@プリシュティナ」

プリズレンからコソボの首都までは、30分から1時間おきにバスがありました。バスターミナルに行くと、すでにバスが停まっていたので、荷物を詰め込むとすぐに出発。「えっまさか私ひとり?」私ひとりを乗せてターミナルを出発すると、動き始めたばかりのバスに、どんどん人が乗ってきました。

さらにバスは昨日歩いたような旧市街を回り、たくさんの人たちを乗せました。地元の人にとっては長距離バスでなく、田舎の乗り合いバスでした。観光地をもう一度眺められるのは良かったですね。旧市街に泊まっていたら、ホテルの近くからでもバスに乗れますね。

プリシュティナ行きのバス

あちこちで乗客を乗せたので、首都プリシュティナに到着したのは2時間後でした。このバスターミナル幹線道路の近くにあるけど、ポツンと建っているだけ、地元の人たちはターミナルに到着する前に降りました。新しい街に到着すると、その辺の情報が分かりづらいので、取り合えず最後のバス停まで行きます。

それでも今はスマホやタブレットがあるから「心強い」、booking.comのアプリを取り出して、予約したホテルの方へと向かいます。住宅街の中に入って、「この辺りなんだけど、、、」そうなんですよ、民泊を利用すると、看板が出ていないので、目的地を探すのが難しいです。

私が荷物を持ってウロウロしていると、カフェにいた男性が「ホステルならそこだよ」と教えてくれた。やっぱり看板はでていない。仕方ないので、中に入って行くと何だかがら~んとしています。それでも大きな声を出していると、若い女性が出てきました。どうやらこの人がここのオーナーらしいです。

プリシュティナの街

旦那さんと二人でこの建物を買って、3階に住みながら民泊として余っている部屋を貸し始めたそうです。まだ始めたばかりなのか、あんまり民泊という感じもしませんでした。私が到着すると、部屋にはまだ汚いシーツがベッドに残っていました。急遽取り換えてくれたけど、掃除はしてくれませんでした。

まあモダンなアパートなのでよしとしましょう。窓も大きくてテラスもありました。隣が共同のシャワーとトイレで、オーナーも利用しているらしい。いろいろな洗面道具が置いてありました。早速シャワーを浴びて洗濯です。テラスに干せるのが嬉しかったけど、外から見つからないように苦労しました。

台所も自由に使ってと言われたけど、使用した鍋がそのまま置いてあったり、、、。1階にレストランをオープンするらしく、大工さんたちも入ったり出たり、、。彼女はずっと忙しく出たり入ったり、、。結局あまり話す時間もありませんでした。

3階建ての家に、いくつ部屋があるのかは知りませんが、庭にはコテージが3件、これも部屋として貸すそうです。とりあえず全部の改築が完成したら、賑やかになると思います。でもシャワーとトイレはその人数分、ちゃんとあるのでしょうか?

 

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2018世界一周の旅 その38「レースで覆われた街路樹たち」

コソボの古都と言われるプリズレンを歩いていて、私の目を一番に引いたものは、歴史のあるモスクや建物でもなく、おしゃれなカフェやレストランでもありませんでした。それはカラフルに飾られた街路樹たちでした。

プリズレンの街路樹は、きれいに刈り込まれているわけでもなく、守電球でカラザられているわけでもありませんでした。最近はペットたちに洋服を着せる方が増えていますが、まるで街路樹に洋服を着せているように見えました。

レース模様で飾られた街路樹

あるところでのお話ですが、ホームレスの人や低所得者の人が、洋服を買えなくて困っているという話を聞いた子供が、家族や近所の人たちに頼んで、いらなくなった洋服を「良かったら使ってください」というメッセージととみに、道路や公園の木たちに着せたという話を聞いたことがありますが、それとはまた異なっていました。

それはカラフルな毛糸で編まれたレース模様を、街路樹にきれいに巻き付けてあったのです。最初は何かのお祭りか、その意味が良く分かりませんでした。プリズレン要塞からの帰り、切れたレースを修復している女性に会い、その謎が解けました。

切れた糸を修復している住民の人

プリズレンでは、コンサートなどのポスターやいろんな物を街路樹に押しピンで張り付けていたそうです。それを見かねた街の女性たちが、毛糸で編んだレース模様で、街路樹を飾るようにしたそうです。そしたらその上からポスターを張る人もいなくなり、街がきれいになったそうです。

それでもいたずらで毛糸を切る人もいれば、長い間に雨や風で自然にきれてしまいます。それをこの女性たちは修復していたのです。何だか心温まるお話に感動してしまいました。プリズレンに行ったら、カラフルに飾られた街路樹を楽しんでください。

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2018 世界一周の旅 その37「プリズレン要塞へ」

コソボ第二の都市プリズレンでは、かつてセルビア帝国の首都でした。旧市街にあるウラグリ(石橋)を見たら、そのまま丘の上に登りたいと思います。そこにはビザンチン帝国時代に作られたプリズレン要塞(カラヤ砦)があります。

プリズレンは観光地よろしく、市内には地図やサインがあるので、要塞には迷うことなく行くことができます。ところがこの道が途中からかなりの上り坂になります。足には自信がありますが、「結構きついなあ~」と思いました。途中レストランやお水を売っている人がいましたが、脇目も降らずに上りましょう。お天気が良かったので、道は悪くなかったけど、雨の日は雪の日は気を付けてください。

プリズレン要塞

プリズレン要塞はビザンチン帝国時代に拡張されましたが、オスマン帝国時代になると、その重要性が失われ、だんだん忘れていかれたそうです。それでも1948年、重要文化財に指定されました。現在アメリカの援助で要塞が改修中ですが、足場もだんだん整えられて、見学しやすくなっています。

要塞の見どころってあまりないように感じましたが、ここからの展望は最高でした。プリズレン市内だけでなく、遠くまで望むことができます。市街の反対側をみると、山々が連なっていました。ここからの夕日がきれいだそうすですが、女性一人ではお勧めしませんね。

チャイで一息ついて、、、

この要塞に上る途中に、セルビア正教会がああります。オスマン帝国時代に壊され、19世紀に改修が試みられたそうですが、残念ながら断念しました。そのため今は天井がない状態になっています。ほとんどの場合入口に鍵がかかっていますが、その鍵は近所に住む人が保管中とのことです。私は行きませんでしたが、その家を保管者を見つけることができたら、、、。入ることができますよ!

一服するときは大抵コーヒー等の私ですが、こんなオスマン帝国時代の文化が残っている都市では、チャイにしましょう。大好きなチャイグラスで、旅の疲れを取りたいと思います。

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2018世界一周の旅 その36「ウラグリ(石橋)を見に旧市街へ」

プリズレンは人口20万人足らずのコソボ第2に都市です。オスマン帝国支配時代に作られた建物は、プリズレン要塞の麓、ハンバルディー川沿いに広がっています。バスターミナルからこの川沿いに上っていくと、プリズレンの旧市街へと続いています。

コソボ紛争の悲劇をニュースで何度も聞いていたので、銃撃戦の後がまだ残っているかと思っていました。しかし大きな被害を受けることはなかったそうです。しかしこの紛争の間、アルバニア系住民はこの街から非難したそうです。紛争が終わり落ち着くと、アルバニア系住民は戻ってきましたが、今度はセルビア系住民が危険を感じて逃亡したそうです。

プリズレンの旧市街

プリズレンで一番多く写真を撮られるのが、ウラグリと呼ばれる「石の橋」です。15世紀の終わり、オスマントルコ時代に作られましたが、1979年洪水で流されてしまいました。それを1982年に再建しました。この橋のたもとで写真を撮ると、モスク・セルビア正教会・城塞・旧市街の街並みを一度にレンズに収目ることができます。

素敵なカフェ、トルコ風のチャイ屋、そしてビールが飲めるバーと、ちょっと寛げるところはたくさんありますが、ここではわざわざ立ち寄る必要もありません。というのは街の至る所に「飲料水用の噴水」があり、美味しい水が飲めました。

この噴水はいつごろ作られたのでしょうね。コソボ紛争中もアルバニア人、セルビア人を問わずに喉の渇きを潤してくれたはずです。そして今私がその恩恵にあずかっています。

美味しい水がたっぷりと湧き出る噴水

 

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2018世界一周の旅 その35「何だか日本の街にいるみたい@プリズレン」

マケドニアのスコピエを出発してわずか30分で国境。コソボへの出入国審査は、バスに同乗しているガイドが、乗客のパスポートを集めて簡単に終了しました。直行なら2時間足らずで行けるのでしょうが、途中小さな街にも立ち寄ったので約3時間でプリズレンに到着しました。

そんな小さな街を抜ける道は良いですね。住んでいる人たちの生活を垣間見ることができます。高速で抜けたら、ただ通り過ぎた景色を眺めるだけ。国際線のバスでローカルバスの雰囲気を味わえるなんて、、、。だからバスの旅が好きなのかもしれません。

近くにあった市場

プリズレンのバスターミナルは、旧市街のはずれにありました。そこから予約したホテルまで歩いていきます。スマホのアプリを使えば、何処へ行くのか教えてくれるのが嬉しいですね。オフラインでもGPSを使って行き方教えくれるのです。

大きな道路から横道に入って、そこには住宅街でしたが、2階建て1軒屋もあれば、10階建ての団地のような建物もあります。あまり大きくない住宅街の道を歩いていきます。途中にはパン屋さん、コーヒーショップ、車の修理や、電気店など個人が経営する店もあれば、スーパーもありました。

計画的に作られていないその道を歩いていると、「昔歩いたことあるような錯覚」に陥りました。コソボに来るのは初めてですよ。その景色は西欧のような整然とした街並みでもなく、中近東のスーク(市場)がある旧市街のような迷路でもありませんが、、、。とっても懐かしい所を歩いていました。

泊まったホテルの周辺

そうこれはまさにアジアですね。日本の地方都市にある住宅街をあるいているようでした。私が東京で働いたころ、姉の家を訪ねていくとこんな景色が広がっていました。高度成長時期に建てられた建物によく似ていました。

歩いている人も違えば、言葉も宗教も違うけど、この雰囲気はアジアですよ。決してヨーロッパの街並みではありませんでした。もう旅行慣れして違和感を感じないかもしれないのです。それでも他の街では、こんなに親しみを感じなかったのに、、。何処かいつも住んでいる街を歩いている気がしました。

 

 

 

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2018世界一周の旅 その34「コソボからセルビアには入国できないかも?」

スコピエの地震後、竹下健三さんが設計したというバスターミナルから、コソボのプリズレン行きのバスに乗りました。多分地図を見ていただいたら、ギリシャから、アルバニア、モンテネグロ、セルビア、そしてマケドニア経由でコソボに入る私のルートに、不思議に思われる方もいるかと思います。

ギリシャからマケドニアに入って、セルビアから入ることもできます。最初ルートはギリシャから何処に行くかと考えて、とりあえずアルバニアにしました。というのはアルバニア行きのバスが、アテネから出ているのか確認できたこと、そしてモンテネグロにも簡単に行けることがはっきりしたからです。アルバニアから次の街に行くバスは、あまり確認できませんでした。(実際には隣国にすべてバスが出ています)

そのあとモンテネグロからコソボに入る予定でしたが、ここで大変なことが発覚しました。いろんなブログを読んでいると、「コソボからセルビアに入国できない」というブログがたくさんありました。

その33「コソボという国」で説明したように、セルビアは現在でもコソボを国土の一部とみなしています。そのためコソボの独立を認めて否だけでなく、コソボから入国すると、「不正入国」と国境でみなされることがあり、「入国を拒否される可能性がある」と書かれていました。

セルビアからコソボへは簡単に入国できるようですが、コソボからセルビアへの入国が難しいようです。はっきりと入国したというブログを見つけることができなかったので、コソボからセルビアに行く計画は止めました。コソボ~マケドニア~セルビアにすれば簡単だったのでしょうが、すでにホテルを予約していて、ルートが変更できないところがありました。

そこで上記のようにコソボを中心にぐるりと一周するルートになってしまったのです。北朝鮮とかリビアのように「独裁国家」と呼ばれるいる国は、隣国から入国できないところもあります。この21世紀になってと思うかもしれませんが、隣国だからこそ「複雑な問題を抱えている国々」は多いです。

幸いにバルカン半島は現在「コソボからセルビアに入国」以外は、特に問題もないようです。ビザもいらないし、ほかの国のスタンプを見て拒否されることもありませんでした。しかし次の旅の目的地「コ―カサス地方」では、このバルカン半島以上に、隣国との民族問題が複雑に絡み合っています。

プリズレンの市街地

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2018世界一周の旅 その33「コソボという国」

マケドニアにわずか1泊だけした私は、そこからコソボへと行きました。コソボと言えば「コソボ紛争」旧ユーゴスラビアが分裂してから、最後まで紛争が絶えなかった国です。それにはこの国に成り立ちや、この国の置かれている立場もあります。そして私があえてコソボに来る前に、セルビアに行った事情があります。

コソボは6~7世紀ごろにかけて、現在のブルガリア人の祖先たちによって建国されました。12~3世紀ごろ、諸侯により群雄割拠される状態が続いていたセルビア人居住地域から台頭した、セルビア人の指導者ステファン・ネマニャにより、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国が統一され、セルビア王国を建国しました。これが現代においても、セルビア人がコソボを「セルビア建国の地」として特別視する理由です。

1455年オスマン帝国に支配されると、オスマン帝国のコソボ州として(Kosovo Vilayet)として1875年まで存続しました。しかしこの間大トルコ戦争(1683~1699年)によって、コソボは壊滅的な被害を受けています。

コソボの最も多くの人口をアルバニア人が占めるようになったのは、17世紀後半から18世紀前半にかけてのことです。オーストリア皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒が、ドナウ川対岸へ移住したことが背景にあるとされています。これを受けてオスマン帝国側は、アルバニア人ムスリムをコソボに入植させました。そのころバルカンでは、オーストリアとオスマン帝国が権力争いをしていました。

1878年オスマン帝国に対して、アルバニア人の自治を求めるプリズレン連盟が結成されました。これは新しくオスマン帝国から独立したセルビアやギリシャなどによるアルバニア人地域の支配に抵抗することを目的としたものです。マケドニアに住んでいたマザーテレサの父もこの運動の闘士でした。

1912年アルバニアが独立すると、コソボもその一部になりましたが、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。それ以来セルビアは国土の一部とみなしています。ユーゴスラビアが建国されると、セルビア共和国内のコソボ自治州となります。

1950年代コソボの独立運動が激しくなると、少しづつ自治の権限が強化されました。1974年ユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ社会主義自治州となると、ほかの連邦構成共和国と同じように自治権が拡大しました。しかしアルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めました。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなったのです。

ユーゴスラビアが解体した後、ボスニアヘルツェゴビナ紛争やクロアチア紛争が終結すると、一部のアルバニア人は、コソボ解放軍を結成して武装しました。最初はゲリラ闘争でしたが、その後コソボ紛争へと発展しました。最初は関心を示さなかったに西側諸国も、1998年ごろからやっと介入を始めました。NATO軍が介入して、戦争はセルビア全土に広がりましたが、1999年やっと停戦を迎えることができました。

その後はセルビア政府の実効支配が終わり、国際連合コソボ暫定行政ミッションが置かれました。2007年コソボは独立宣言しました。現在コソボの独立を認めているのは113か国です。ロシアや中国などの旧共産圏の国々や、ギリシャ、セルビア、クロアチア、ルーマニアなどの隣国も認めていません。

これからどのような国として発展していくかが楽しみです。

コソボ紛争のシンボルになったオールドタウン

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