2018世界一周の旅 その33「コソボという国」

マケドニアにわずか1泊だけした私は、そこからコソボへと行きました。コソボと言えば「コソボ紛争」旧ユーゴスラビアが分裂してから、最後まで紛争が絶えなかった国です。それにはこの国に成り立ちや、この国の置かれている立場もあります。そして私があえてコソボに来る前に、セルビアに行った事情があります。

コソボは6~7世紀ごろにかけて、現在のブルガリア人の祖先たちによって建国されました。12~3世紀ごろ、諸侯により群雄割拠される状態が続いていたセルビア人居住地域から台頭した、セルビア人の指導者ステファン・ネマニャにより、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国が統一され、セルビア王国を建国しました。これが現代においても、セルビア人がコソボを「セルビア建国の地」として特別視する理由です。

1455年オスマン帝国に支配されると、オスマン帝国のコソボ州として(Kosovo Vilayet)として1875年まで存続しました。しかしこの間大トルコ戦争(1683~1699年)によって、コソボは壊滅的な被害を受けています。

コソボの最も多くの人口をアルバニア人が占めるようになったのは、17世紀後半から18世紀前半にかけてのことです。オーストリア皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒が、ドナウ川対岸へ移住したことが背景にあるとされています。これを受けてオスマン帝国側は、アルバニア人ムスリムをコソボに入植させました。そのころバルカンでは、オーストリアとオスマン帝国が権力争いをしていました。

1878年オスマン帝国に対して、アルバニア人の自治を求めるプリズレン連盟が結成されました。これは新しくオスマン帝国から独立したセルビアやギリシャなどによるアルバニア人地域の支配に抵抗することを目的としたものです。マケドニアに住んでいたマザーテレサの父もこの運動の闘士でした。

1912年アルバニアが独立すると、コソボもその一部になりましたが、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。それ以来セルビアは国土の一部とみなしています。ユーゴスラビアが建国されると、セルビア共和国内のコソボ自治州となります。

1950年代コソボの独立運動が激しくなると、少しづつ自治の権限が強化されました。1974年ユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ社会主義自治州となると、ほかの連邦構成共和国と同じように自治権が拡大しました。しかしアルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めました。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなったのです。

ユーゴスラビアが解体した後、ボスニアヘルツェゴビナ紛争やクロアチア紛争が終結すると、一部のアルバニア人は、コソボ解放軍を結成して武装しました。最初はゲリラ闘争でしたが、その後コソボ紛争へと発展しました。最初は関心を示さなかったに西側諸国も、1998年ごろからやっと介入を始めました。NATO軍が介入して、戦争はセルビア全土に広がりましたが、1999年やっと停戦を迎えることができました。

その後はセルビア政府の実効支配が終わり、国際連合コソボ暫定行政ミッションが置かれました。2007年コソボは独立宣言しました。現在コソボの独立を認めているのは113か国です。ロシアや中国などの旧共産圏の国々や、ギリシャ、セルビア、クロアチア、ルーマニアなどの隣国も認めていません。

これからどのような国として発展していくかが楽しみです。

コソボ紛争のシンボルになったオールドタウン

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