2018世界一周の旅 その31「マザーテレサは何人なのでしょうか?」

私が生まれたころには、すでにインドのコルカタで活動され、世界中にその名前が知られていたので、てっきり英国系のインド人とばかり思い込んでいたのが、「マザーテレサ」です。コルカタに旅行するバックパッカーの間では、彼女が創設した「マザーテレサの家」でボランティア活動する人も多いようです。

今回バルカン半島の旅行を計画しているとき、資料によってはマザーテレサはアルバニア人と書かれていました。アルバニアの首都ティラナの空港が通称「マザーテレサ空港」と呼ばれたり、ティラナの街には大きなマザーテレサの銅像もあります。

マザーテレサが子供のころ使用したベッド

しかしマザーテレサが生まれたのは、紛れもなくスコピエ。現在でこそマケドニアの首都ですが、彼女が生まれたころはまだ「オスマン帝国」の一部でした。マケドニアは1910年代のバルカン紛争により、セルビア、ブルガリア、ギリシャによって分割されましたが、スコピエはセルビアの一部になりました。

そのころ現在のマケドニア、コソボのアルバニア人を中心に「アルバニア独立運動」が始まります。マザーテレサの父はアルーマニア人(ルーマニア人と同系)ですが、この運動を支援していました。しかし独立はしてものの安定した政治は長続きしませんでした。

セルビアの一部になったスコピエですが、第二次世界大戦が終わり、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成するマケドニア人民共和国の首都になるまでにも、いろいろな国がこの街を支配して、決して安定した時期はありませんでした。

1928年アイルランドのロレト修道女会に入ったマザーテレサ(当時18歳)は、翌年からインドのコルカタにある聖マリア学院で地理と歴史を教えることになりましたが、1948年修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入り、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになりました。

マザーテレサのレリーフ

その後の活躍は良く知られています。ホスピスや児童養護施設を創設していきますが、宗教を超えて、たくさんの人たちを受け入れました。そしてその動きはインドのみなら全世界へと広がっていきました。

1979年ノーベル平和賞を取ると、それまで彼女の名前を知らなかった人たちも、知るようになりました。その時彼女はユーゴスラビア出身と言われました。しかしマケドニア、コソボ、(当時はユーゴスラビア)やアルバニアからクレームが出たようです。

彼女のお母さんはルーマニア人でしたが、マザーテレサはユーゴスラビア人でもなく、しかもマケドニア人でもありません。マケドニア生まれのアルバニア人というのが一番良く言われているようです。

このようにひとりのひとの帰属問題を考えるだけでも複雑ですが、オスマン帝国が破壊してからわずか100年ちょっとの期間に、スコピエがそしてマケドニアがいろんな国の支配下になりました。それがこのバルカン半島の民族問題そして国境線を複雑にしている理由です。

年代別にマケドニア、スコピエ、マザーテレサと読んでみましたが、最終的に、彼女が何人なのかは今でも私には分かりません。しかし彼女の偉業が永遠に続くように、「スコピエ出身のマザーテレサ」で良いと思うのですが、ハッキリとさせないと気分が悪い人も多いのでしょうね。

マザーテレサ

 

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